1ヶ月ほど前か、まだ暑い時期にイマギー代表から、

「twitterやめたし、コラムかなんか書いてみんさいよ。」

と勧められ、「相対性理論=綾波レイ論」とか「母親化するアイドルファン」とか「世界一kawaiiおじいちゃん:細野晴臣」とか、色々書いてみてたんですが、どれも大して面白くなく、しっくり来ず、ボヤボヤ悩んでいるうちに気付けば8月31日。明日はまさかの防災の日となっておりました。

 〆切は先週末、まあこれ以上悩んだところでロクなもん書けないんで、音楽から始めて思いつくまま進めてみることにしました。たぶん大体が悪口です。

 

 

ongaku to shinsai

 

 

 震災のあと、スピッツのマサムネさんが諸々でしんどさのあまり倒れたっていうニュースが流れたんですけど、覚えてますか。

 私は割とっていうか、結構本気で否定的に受け止めまして、「(倒れるほど繊細な)マサムネさんまじ天使」って言ってる奴はどうかしてるぜって思ってました。

 だって、現実とか生活から遠いものを生業にしてる人こそ、そういう論理や科学じゃ太刀打ちできない、生きるとか死ぬとか未知の問題を考える時間を過ごしているはずなのに、その年齢でもまだ倒れる繊細さが許容されちゃうのかよっていう。今まで何を考えて創ってたの?っていう。

 想像力が期待はずれで、スピッツ、そこそこ好きだからこそ何かちょっとなあって考えてしまいました。(まあ、マサムネさんが倒れた理由の真相はわからないんですが。)

 

 とはいえ、震災のずっと前から、子どもが銃持って働いてたり、貧困と飢餓で人が死ぬ日常はどこかしらにあったわけで、それがたまたま物理的に遠い世界の話だから放っておけただけで。

 そんなどうしようもなく哀しく痛ましい日常が、いざ車で行き来できちゃうような距離に出来た途端、創る人が揃いも揃って「希望」とか「We are with you」とか言い出すのは非常にうさんくさかった。

 そもそも、こういう状況で流通しすぎて発酵するくらい世間の手垢がつきまくった言葉を、無批判にただ「心からのメッセージ」って使えちゃうような感性の人は、職業問わず「アーティストとして」って枕詞使うの禁止っすよ。アーティストとしてじゃなくて、社会人として出来ることをすればいいんじゃないですか。

 「希望」だの「with you」だの、そんなありふれた言葉で慰められるほど軽い絶望なのかよ。とりあえず頑張れって言ってるのと何が違うんだろう。

 

 本当にしんどい人にとっての希望は何かとか、寄り添い方を考えもせずに、慰め・労り・励ましを標榜する表現なんて、有料だろうが無料だろうが、結局は他人の不幸をモチベーションにした創作でしかない。

 それが嬉しい人もいるだろうけど、そういう定型しか響かない人は、永遠にその定型を求めて消費し続けなくちゃいけない。

 そこに価値はあるのかい?と、問い直さずに、世の中にすでに流通している、わかりやすく平易な言葉ばかり使っていたから、結局、創り手や表現の世界を一緒に育てるような受け手が増えなかったんじゃないのか、とか。

 

 たとえば、美輪明宏をして「ブタの寝言」と言わしめた(らしい)ラップなんかは、歌詞が“詩”じゃない。詩じゃなくて、日常の言葉をそのままの言葉遣いでメロディに乗せている。(発祥から考えれば当たり前ですけど)

 父ちゃん母ちゃんに感謝したりお前を一生守ったり誰かをなじったり、ラップは、まあラップじゃなくてK・J問わずPOPジャンル全体に言えることですけど、詩とか新しい表現の実験を求めて聞く音楽じゃなくて、「愛してる」とか「あなたに逢いたくて」「会いたくて」「震える」(笑)とか、すでにどっかで見たような聞いたような感じたことがあるような、抵抗なく違和感なく共有共感できるメッセージをエンドレスリピートするもの。

 美輪さんは詩を求めるからラップもブタの寝言に聴こえるんだろうけど、逆にラップを聞きたい人たちは、詩を求めてない。詩で音楽に触れない。詩で思考したことがない。彼らはつねに日常の言葉づかいで考える。だから日常の言葉で音楽を聞いている。

 

 最近、高校生のころ、TEAM ROCKを聞いたくらいでスルーしていたくるりがアツいです。

 大体20代の人間が7人いたら3人くらいはくるり好き(私調べ)ですが、「東京良いよね」とかって盛り上がる友人の傍らでYMOなどピコピコ聞いてた人間にはよくわからない感覚でした。

 でも、残業で疲れ果てた7月のある平日深夜のこと、オフィスで「ばらの花」を聞いたとき、「やっぱりくるりってすごいんだな」って思ったんですよ。

 重かった肩が軽くなっていって、こんなに聞くことが気持ちいい、美しい曲がこの世にあるんかいと。神様ありがとうと。ただ音楽を聞いただけで、身体の調子が良くなっちゃうなんて。

 

 先輩や同僚の「がんばろうぜ」「すごいねさすがだね」という励ましは心からありがたかったし、嬉しかったんですが、さすがに身体の調子まで整えてはくれませんでした。

 でも、「ばらの花」は、少なくとも、私の知っている範疇の、当たり前の労りの言葉では届かないところまで来てくれました。

 わたしがこの世で「美しい」認定をしている音楽は、Sun Kill Moonの「carry me ohio」とThe Sundaysの「My Finest hour」の2曲だったんですが、これに

「ばらの花」も追加とあいなりました。

 

 余談ですけど、アウシュビッツ収容所のある研究では、「愛」「美」「夢」を意識していた人の生存率が高かったという結果があるらしいです。文字の並びが完全に正月の書き初めか宝塚かって印象ですけど、そうじゃなくて、心理学の研究冊子で見かけました。

(愛:他人にご飯を分け与えた、離れた家族に思いを馳せた/美:牢屋越しに見える夕日や鳥の姿に美しいと感動した/夢:ここを出たらパン屋を開くぞ、と夢をもっていた、など。)

 もし愛と美と夢が人を生かすなら、残業による肩こりや眼精疲労なんて軽く治せるはずです。要は、「美しい」っていう感動を呼び起こすような何かには、もしかするとものすごい可能性があるわけです。

 

 人間には、日常の言語だけではカバーしきれない領域があって、そういう見えない何かにじっと目をこらす。深く探って、これまで誰にも見えてなかったものの輪郭を浮かび上がらせようとする。

 そうやって、ありふれた想像力から離れたところに新しい希望や可能性を見出したとき、やっと、「アーティストとして」という自意識が許されるんじゃないかな、とか。

 そんなことをえらそうに考えている、今日このごろです。

 

 

  愛のばら掲げて 遠回りしてまた転んで

  相づち打つよ 君の弱さを探すために

  安心な僕らは旅に出ようぜ

  思い切り泣いたり笑ったりしようぜ

 

              「ばらの花」 くるり